箏・三絃について  


「箏」という楽器のことを、普通「おこと」とも言います。漢字をあてはめる場合「琴」という字をあてて、「お琴」などと書く場合も多いです。しかし、「琴」と「箏」とは、本来異なる楽器です。

ただ、江戸時代でも「琴」と「箏」は、用字法の上で混用されていました。したがって、「琴」という楽器は現在「七弦琴」のことを言いますが、その琴が、ほとんど実用されなくなってしまっているので、「琴」と書いても「箏」のことを表す場合が多いのです。
ここでは、正しい字として、「箏」の方を用いておきます。


箏は、前後にアーチのかかった横に細長い板状で内部が中空の胴に、13本の絃を渡して柱(じ)を用いて張り音程を調節し、奏者の右手に嵌めた爪(義甲)によって絃をはじいて音を出し演奏する楽器です。
楽器の各部分には、「龍角」「劉眼」「龍手」など、箏を竜に見立てた名称がつけられています。


十三本の糸には名称があり、演奏する側の反対側から一、二、三、四と数え、十以降の糸は斗(と)、為(い)、巾(きん)と呼びます。




 生田流と山田流の豆知識

江戸時代の後期、特に江戸において、新しい形式の箏曲が創造されました。
それは、江戸の山田斗養一(とよいち、1757〜1817)が創始したもので、江戸で行なわれていたさまざまな三味線音楽を、箏を主奏楽器とする音楽として改変したものです。
それも、既成曲の編曲ではなく、新しい音楽として〈小督曲〉など数多くの作品を作りました。

 結果として、当時の江戸の三味線音楽が声楽に重きを置いていたので、この山田斗養一の新作も、声楽本位の曲が多く、つまり、箏を主奏楽器とする新歌曲を創造したものと言えます。そして、この箏曲に三味線も合奏され、現在では尺八も加えられ、曲によっては胡弓も合奏されています。

 その後、江戸では、この形式の箏曲の伝承と、新作品の創作が続けられました。
こうした箏曲を「山田流箏曲」と言いますが、山田流箏曲の演奏家は他の「箏曲」や「地歌」を演奏しないというわけではありません。また、この「山田流」に対しそれ以外の箏曲家を、八橋城談の孫弟子の生田(いくた)幾一(1656〜1715)の名にちなんで、「生田流」ということもあり、結局、生田流と山田流とでは、レパートリーに多少の違いがあることになりますが、本質的には、同じ箏の音楽を扱うものであることにかわりなく、共通するレパートリーも多いのです。




三絃(地唄三味線)

和楽器の中では、比較的歴史が浅いと言える。基本的にはヘラ状の撥を用いるが、三味線音楽の種目により細部に差異がある。特に地唄・箏曲の世界(三曲)等では「三絃」と呼称し、表記されます。

楽器本体は「天神」(糸倉)、「棹」(ネック)、「胴」(ボディ)から成り、さらに棹は上棹、中棹、下棹の3つに分割出来るものが多く、このような棹を「三つ折れ」と言います。
これは主に収納や持ち運びの便のため、また棹に狂いが生じにくくするためですが、分割されてないものもあり「延棹(のべざお)」と称します。逆に5つ以上に分割できるものもあります。



糸(絃)は三本で、太い方から順に「一の糸」「二の糸」「三の糸」と呼びます。
それぞれ様々な太さがあり、三味線音楽の種目ごとに使用するサイズが異なります。




三曲合奏の豆知識

もともと地歌三味線、箏、胡弓は江戸時代の初めから当道座の盲人音楽家たちが専門とする楽器であり、総称して三曲と言います。これらの楽器によるそれぞれの音楽である地唄、箏曲、胡弓楽が成立、発展して来ましたが、演奏者は同じでも種目としては別々の音楽として扱われており、初期の段階では異種の楽器同士を合奏させることはありませんでした。しかし元禄の頃、京都の生田検校によって三絃と箏の合奏が行われるようになり、地唄と箏曲は同時に発展していくことになりました。


現在伝承されている曲の多くは三絃で作曲され、その後に箏の手が付けられているものが多く、三絃音楽として地唄は成立し、ほぼ同時かその後に箏曲が発展してきたと考えられます。ただし箏曲の「段もの」は後から三絃の手が付けられたものであり、ほかにもしばしば胡弓曲を三絃に取り入れたものもあります。胡弓との合奏も盛んに行われ、三絃、箏、胡弓の3つの楽器、つまり三曲の合奏する三曲合奏が行われるようになりました。このような環境の中で地歌は、三弦音楽として発展したのです。




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